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confuoco Dalnara

ノラボセ 王の男

映画『王の男』を観て。
天と地の間の中空を渡る芸人ジャンセンは
陰陽思想の天地人の真ん中、人を体現しているよう。

封建的身分制度の厳しい時代
天(王)と地(下級層の民)の間を行き交い笑いを運んだ芸人の生。
芸人がもたらすハン(恨)を解き放つような笑いは
天(王)にとってはただの悦楽、愉楽にすぎないが
地を這う者たちにとっては
生の厳しさを忘れさせる、遊び、一瞬の逸脱、解放感。

ノラボセ(遊べや遊べ)のかけ声ではじまるプンムル(風物、サムルノリ)の演奏で
ひと時地べたの生から離れ遊楽を味わう民たち。
生の辛さ厳しい現実から解き放つ(ハンを解く、サルプリ)パン(場)のノリ(遊び)はホモ・ルーデンス(homo ludens)、人は遊ぶ存在であるという人間理解を刺激する。

ただし、同じ仮面劇を見て笑う天(王)と地(民)の間は
ひとつの笑いで結ばれているようにも見えるし
価値観までを共有しているわけではないので
ギャップが浮き彫りになっているようでもある。
笑いが天と地の間にある人(ジャンセンたち)を通して
天と地を近づけ、結びつける時間は永遠ではない。

仮面劇というある虚構が激しく天(王)の側を刺し
上にいるものたちを翻弄する時
虚構と現実が幻惑するように転回するさまは
シェークスピアの悲劇のように
人間のひとつの弱さ、人間らしさを描いて興味深い。

天と地の間の裂け目と乖離を超えて
自由に諧謔と笑いを運ぶ芸人の言葉、芸人の芸という
形の残らないものが王をつき動かすところでは
言葉の力、無形の芸術の力も感じる。
さらに生まれ変わっても芸人にと
自己肯定するジャンセンとコンギルが叫ぶ言葉に
ニーチェのツァラトゥストラのamor fati運命愛を意識した。
芸人が生に抱くかすかな諦念も含まれるが...
諦念だけではない、
人生を愛し、肯定し人生を遊んだ芸術家の告白
「これが生であったか、よしもう一度」(Nietzsche)のようで
(墓碑にSCRISSE AMO VISSE 「生きた、書いた、愛した」と後悔ない生を記したスタンダールも思い浮かぶ)
力強い生と、儚くか弱い運命の対比を噛みしめた。芸の、表現の歓びと生の悲哀が対立し両立している。

映画という虚構の器に
もうひとつ仮面劇という虚構を入れて真実を語らせ...
映画と仮面劇が入れ子になった作品の構造は
芸術の持つ虚構性が実は多くの真実を伝えることをより強く意識させる。

余談だが、ユッカプ(ユ・ヘジン)がもっと大きいパン(場)がある、と
ジャンセンたちを連れて行くパンが
パンはパンでも賭場(パン)で
映画『タッチャ(タチャ、イカサマ師)』での
ユ・ヘジンの姿と重なっておかしかった。

イ・ジュニク監督の前作の『黄山ヶ原』もいろいろ象徴的だったが...
今作も一回だけ、例の「コシギ」が聞こえてきて楽しかった。

homo ludens:ノリ(あそび)のある

buzz KOREA

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